10年を経て今思うこと
~組合員から
伊熊 憲世さん
インタビューアー:10年経った今の思いを聞かせてください。
インタビューアー:10年間の活動の中で、一番印象的なエピソードとか出来事とかありますか?
伊熊さん:やっぱりタオルかな。メッセージと一緒にたくさん集まった。あの時は、みんな何かしたかった。タオルってなかなか思い浮かばなかったけど、呼びかけてすごい量が集まった。タオルってこんなに集まるんだとびっくりした。組合員でタオルをたくさん集めて送ったら、タオルで作ったウサギなど手しごと品となって戻ってきたことも印象深い。どこの仮設住宅で作られたかというカードが入っていて。
私の周りに率先して行動してくれる人がいるからこそ、私も一緒に行動できるなと思うし、震災支援も同じだった。
いろんなグループが行政のイベントにも参加したりして震災支援を活動していた。組合員以外の方も参加して、地域ぐるみで震災支援をしているような感じもあった。
あとは、福島のことはすごく気になる。ダキシメルオモイ展を計画していたが、コロナで中止になってしまった。なんとなく震災のことが薄れていってしまうのでは、でもまだ終わっていないよという思いもあってやりたかった。震災がまだ続いていると思っているから。ダキシメルオモイも支援の一つだなと思う。いろいろな人に呼びかけたら賛同してくれる人がいた。その人たちで実行委員会を作り、準備してきて、3.11に近い日でやろうとしていた。
東北支援というばかりではなく、忘れてはいけないことをきちんとみんなで見つめようという気持ちを込めてやりたかった。
これをやろうと思ったのも、活動の交流会で他地域の人たちが自主的に映画上映をやったりしているのを知って、「できるんだ」と刺激を受けて行動してきた。
一人だとできなかったけど、いろいろな人だとできたりするし、助けてくれたりする。それを実感した震災支援だなと感じている。職員のみなさんにもさまざま動いてくれたことも感謝。
防災という動きも一時期高まったけど、少し忘れてきている。一度やったらいいみたいな気持ちになってきているかもしれない。危険な場所のマッピングしてみると、意外と知らない・気づいていないこともある。防災備蓄だってそう。10年経って忘れてきている感じもあるので、継続的することが大事。
インタビューアー:最後に10年間を振り返って、これからに向けての思いやメッセージをいただければ。
伊熊さん:10年後の様子を見るためにも、今、ツアーしてもいいなとも思う。コロナ禍で難しいけれど。
地域が一番大事、生きていくうえで。震災で街が無くなるということは、地域のつながりが無くなってしまうということ。「自助」や「共助」と言われているが、やっぱりいざというときには共助が大切だなと感じる。
知らないけれど、生協の組合員でつながっている。活動を通して、いろいろな人とつながることができたのは私の財産。
つながりを求めていたかもしれないし、大事にしてきた。アンテナも張ってきた。そうすると絶対誰かが現れてきてくれて、自分と一緒に行動してくれる人がいた。そういう人が若い世代にもたくさん増えてくれると嬉しい。
10年経ってもつながりが大事で、アンテナを張ってきてよかった。そういう経験を若い人たちにもしてほしいし、共有したい。大変な時こそそういうことが大事だなということを痛感した。
インタビューアー:今日はお話いただきありがとうございました。
鶴島 道子さん、祖父江 裕子さん
インタビューアー:10年間振り返って、今一番思うことをお話しいただけると幸いです。
鶴島さん:震災がなければ来なかったはずの愛知県に、高齢の両親を連れてくるとは思いもよらなかった。何もかも失って、これからどうしようと不安な中で来た。被災者として、普段の賑やかなところにポツンと避難してきて、あまりにも違いすぎて温度差を感じていた。ただ、普通の生活がこっち(愛知県)にあることが、同じ日本なのになぜこんなに違うのか、そこがショックだった。毎日普通の生活ができる、まだ岩手は水もない、トイレも仮設という状況だったので。あっちであればみんな一緒だから、「がんばっぺし」と言い合いながら頑張れたのに。当時、市役所にいたけど、4月のはじめ大変な中こちらに来たので、私は逃げてきたという思いもある。なので、これからはひっそりと生きていかないといけない、目立たないで、静かに両親の面倒をみながら生きていかないといけないという気持ちだった。いろいろな不安が大きかったけれど、ここで生きていかなくてはいけないという思いはあった。
そこから始まって、コープあいちが学びのツアーをやって、東北を、その中でも陸前高田という私のふるさとを応援してくださっているということを聞いて、皆さんとつながってきた。生協は共済も一番に給付してくれて、いわて生協に加入していたのですごいなじみがあった。まさか陸前高田、私の出身の地区の祭りを応援してくれるということで、なんという偶然というか、びっくりして、やっぱり何か縁があるのかなと感じていた。すごく一生懸命、自分のことのように、寄り添って、見ず知らずの人が厚く応援してくれて、今はその人たちが仲間になれて。誰一人つながらずに生きていくと思っていたところに、そのような方たちと知り合って、父が亡くなったときに葬儀に来てくださって。親戚のような、この方たちがいなければ、ただ家と仕事で終わっていただろう。
コープあいちは陸前高田をはじめとする東北への支援を10年はしますよ、と理事長が言っていただいて、人が行き来する、交流することが多かった。でも、今は少しずつ減ってきたという感じはする。でも、現地での経験を活かしてもらっているとは思う。
人とのつながりが非常に宝物で、生きていく糧になっている。前は帰ってこいと言われていたが、今では「そっちさいっていかったべっちゃ」「そっちさいたほうがいいぞ」と言われる。帰って来いとも言われなくなった。でも、あちらとはつながっている。
振り返っては、こっちで生きていくということが固まったし、あっという間の11年だった。自分も被災者なんだけど、それも忘れてきたような。年月って怖いなと感じる。
定期的に皆さんと会ってお話ししたり、連絡とったりしている。「鶴島さん大丈夫?」と声をかけてもらえたりするのでもすごく幸せだなと感じている。孤立してないし孤独ではない。やっぱり人とのつながりは大切だと思う。
避難所にいたときは、寒かった季節で、風呂も2週間入れなかった。だから、「おいしいもの食べて温泉入って笑って暮らそう」と父母といつも合言葉のように話していた。「そのうち」というのはないと思った。やり残したこともいっぱいあるのに、あっという間になくなってしまうことを経験したから。
今思うことは、もう前しか向かない。1日1日を笑顔で楽しく過ごしたいというのを思っている。被災の時に明日はないという覚悟ができた。何があっても笑って暮らしたいと思っている。そんなにうまくはいかないけれど。みなさんの代わりに、泣いてではなくて、笑って暮らしていきたい。気持ちの波はあるが奮い立たせて、できれば前向きにね。
祖父江さん:震災6カ月後の様子を目の当たりにした。その時に、どうしようって。私もいろいろな人に助けをもらって生きてきた。だからこそ、役に立つことがあったらお手伝いすることが自分の役目かな、大それたことではないのだけれど、何かできないんだろうかという思いはあって、それが今でも続いている。コロナ禍前は8年間、毎年のように現地に行っていた。
街の復興というのは、素晴らしいものもある。いろいろなものが新しくなるけれども、災害弱者といわれる方たちのことを今でも心の片隅にある。どうしていらっしゃるのかという思いが今でも気になる。そんなことを思いながら過ごしてきた。
漂流物の中から遺骨が出たというもあったということもニュースでよく聞いていた。現地に行った時もバスの中から出ずに、お話もバスの中で聞かせていただいた。漂流物だって、皆さんの財産。それを「がれき」とは呼んではいけないねという思いがあって。その上に立つこともしなかった。写真も撮らなかった。それぞれの方々の心の中にいろいろな思いがある中なので、目で見て心で感じることしかないなと思っていた。その時のことは今でも心の中にある。
新しいお家を立てて入られる方々ばかりではない、そういった方々はどのように過ごされているんだろうということはとても気になる。
インタビューアー:愛知で活動されている中で伝えてきたこと、考えたことを教えてください。
鶴島さん:私も同じだが、被災して初めて自分事になる。いくら「こうなんですよ」「こういうもの準備してください」と一生懸命立派なことを言っても、その時は「そうしなきゃいけない」「こうしなきゃいけない」と思っても、なかなか自分事にならない。私も、阪神大震災のときに、同じ日本でこのようなことが起きて、食事を並んで取りに行っている様子などを見て、かわいそうだと思っても、他人事だったのだと思う。地震が多い高田で暮らしていても、他人事だったと思う。自分が初めて被災してみて、誰もいない、すっかり漂流物だらけで、水浸しで、これからどうするのって。「これは嘘だよな」と「夢だよ」と当日は話してた。16時前には暗くなって、雪がいっぱい降ってきた。ろうそくの近くに集まってきた人たちと、1つのラジオを聞いて、被害状況を聞いていたときに、青森の八戸から宮古釜石大船渡の次に陸前高田が出てくるのだが、紹介が飛ばされた。その時に、それだけ被害が大きく発信できない、実態がつかめていなかった。翌朝、寝れないから早く目が覚めて、「これ現実だ」「これからどうやって生きていくんだ」という感じだった。いつも思い出すのは、昔の街並みと、何もなくなった街の様子。
東日本大震災から防災というのがすごく大きくなった。特に愛知は南海トラフとかもあるので、すごく一生懸命。名古屋市はまるごと支援で、陸前高田へ行った職員がこちらで危機管理課に入って一生懸命やっている。自分事として捉えてきた方が防災士になったりして、それぞれの地域の中で生かしてきている。これは大きな進歩だと思っている。でも、現地に行った人たちがもっとつながって、それぞれの地域でも防災のことを取り組めていればもっと防災意識は広がっていたのではないかともったいなく思うところがある。防災への取り組み、自分事にする取り組みを行った人たちだけでもいいから年1回でも集まってつながっていけば違ったのではないか、もったいない。これだけの車両や職員やセンターがあるのに、活かせないのがまどこっろしい。10年経っても防災に関してそれほど変わってない気がするのでそれがもったいない。自分事としてなかなか全体的に捉え切れていない。
復興支援については積み立てしているが、どのように使われているかが組合員に伝わらない。目に見える支援をしてもらいたいなと。自分たちが出したお金がどのように使われているか具体的に分かればもっと募金もできると思う。組合員の防災の活動・学習に使ってもいいのではないか。地域と組合員にも使える蓄積にしていきたい。
祖父江さん:延べにしたらすごい人数が東北へ行っている。最初の2年間くらいは交流会をやってきた。
鶴島さん:だからこそ、もったいない。続けていれば違ったのではないか。
インタビューアー:自分事でとらえるって難しい。自分の身になって初めて気づくことがあるので、自分事にした人たちがどうやって広げるかが大事。
鶴島さん:現地に行って話を聞いたり、見たりして五感で感じたことを昇華しないではもったいない。職員だけでやるんじゃなくて組合員ともいっしょに区別なく支援活動や防災活動に一緒に取り組めたらいい。自分たちが、自分事としてやりたいという人たちもたくさんいる。
インタビューアー:祖父江さんも、誰かのお役に立てることがあればということで、実際に発災後6か月で現地に行ってということもあったと思うが。
祖父江さん:私は誰かのお役に立てばということもあるが、自分自身が東北に魅せられてしまったということもある。土地とか人とか、最初の1・2年は打ち解けるような感じではなかったが、長い間行っていると親戚みたいな方がたくさんできた。今一番思っているのは、今後は私たち行った人たちがどんなことができるんだろうって。見守ることしかできないのかもしれないけれど、やっぱり絆はつなぎとめておきたいなって思う。今まで私もいろいろと勉強してきたことを、自分たちにどう生かすのかということが大変だと思うけれど、災害って自分のこと。自分事じゃないって言われるかもしれないけれど、自分の事。災害がこれだけ頻発している。その災害に向けて、どう自分が備えるか。テレビやラジオだって、いろいろな情報を伝えてくれる。スマホだってある。自分で積極的に情報を見ていかなければならない。自分で災害に向けて学ぶことも大事。他人事だと思っている方がたくさんいらっしゃる、それが私は心配。
この土地で三陸沖級の地震が起こったとき、三陸だからお互いの絆があったからこれまで乗り越えてこられたのだと思うが、果たしてどれだけのことができるのか。コープあいちの組合員であることが、一つの縁だと思う。組合員にとっても起きたときにどうしたらいいかみたいな行動計画が作れたらいい。
インタビューアー:これからに向けてという部分ですでにお話もいただいている部分もあるが、ご自身の生活について、活動について、組合員に伝えたいことなどどのようなことでも構わないので、これからに向けて思うことやメッセージを。
祖父江さん:今後に向けてという部分では、3つ。災害は自分のこと、情報は自分で積極的に集めないといけない。災害が起きたときにどうするか、その備えで人と人との関係によるつながりと言えるかもしれないが、組合員同士がどう動けばいいのかというのは考えなければいけないかなと。組合員同士でなくても、地域の人同士でも一緒。阪神淡路大震災の時に、生協の店舗を地域の人も一緒になって運営したという話もある。生協の真髄というか、生協だからこその姿だなと思う。そういった機運を高めていけるといい。
鶴島さん:戻らないとは言うが、故郷は陸前高田。親戚もいるし、墓もある。11年になるし、お墓をこちらに移そうかと子どもたちにも相談したが、そうしてしまうと自分たちが生まれ育った、18までいた故郷に帰ることも無くなってしまうから、もう少しもうちょっと置いてほしいと言っていた。
知り合いがあちらの情報を送ってくれるのだが、やっぱり孤立している。寂しくなっている。建物とかは立派だが、昔の集落なども無くなっているし、バラバラになっている。本当に「昔に戻りたい」という話をよく聞く。コロナで集会場とかも使えなくて、集まることもできないから寂しいと。小さい町だからこそ、人の目が気になって、どこにも行くことない。
昔の楽しさ・賑やかしさを思い出して、「昔はよかった」という会話がどんどん増えているようだ。コロナで格差が広がっているので、その影響もあると思う。
大学生でも1日1食しか食べないと聞くと、同じ日本でそんなことがあってはいけないと感じている。若い人たちの手助けになることを何かしたいし、そこにつながりたい。自分の経験を話して、一緒に何かやろうよというようになっていきたい。若い人たちがやりたい・何かしたいというところにつながっていないと感じている。
コープあいちにも若い組合員もたくさんいて、その人たちにお話をするときは命の大切さを言っている。仲間とか、人とのつながりがとても大切。何か起きたときに「助けて」といえる関係をもってほしい。孤立をなくしたい。孤独より孤立すると深刻だと思う。自分なら耐えられない。これからの日本を背負って立つ人たちと交流を続けたい。
鶴島さん:学びのツアーに行った人たちは、見て・聞いて・思ったことを生かしてそれぞれ活動している。
祖父江さん:大きいことも、小さいことも各地でさまざまやっている。
鶴島さん:培ってきた経験をもっと活かせるようにしたい。生協としてそういう場ができると嬉しい。
祖父江さん:生活全般の生協でありたい。物の売り買いだけじゃなくて。
鶴島さん:災害ボランティアに行っても、「コープあいちです」というと、「名古屋から来てくれたのね」と言ってくれる。忘れないで、いつも顔出してくれる、声かけてくれる、「おらたちは忘れられてにゃあだな」「たいしたもんだな、愛知の人たちは」と言ってくれている。それだけ長く寄り添ってくれているということ。
祖父江さん:ずっと続けてきたことの力は大きい。これがコロナで切れてしまったから、すごくもったいない。でも、私たちはまだ岩手の方とつながっている。
鶴島さん:10年経っても、職員も組合員も一緒に交流や話し合いができればいいと思う。
インタビューアー:今日は貴重なお話ありがとうございました。
伊熊さん:震災後、現地の様子を見て「何かできないか」と思い、お話ししていたら、コープ諏訪で募金活動に取り組むことができた。何かやりたいを行動に移すことができる仲間がいて、場所があったことが一番大きい。いろいろなことがそろっていたからこそ、行動できた。
普通だったら足踏みしているところが、行動に移せたことがすごくよかった。
動いている人がそばにいる、ちょっとしたことでも近いものに感じる。そういう人がそばにいることが強みだし、私に行動させてくれる。
クリスマスカードを送ったり、タオルを送ったり、いろいろな取り組みをしてきた。行動すると、近くなるし、つながりが生まれてくる。つながりというのを感じながら支援を続けてきた。そういうことを中心にやってくれる人が増えていくといいなと思う。