その他
ウクライナ避難者の現状の「声」
①40代女性
私と息子2人は2023年8月に避難してきました。日本を選んだのは友人が日本に住んでいたからです。日本での2学期が始まり、下の息子を入学させるため小学校へ連れて行きました。その時出会った保護者の1人がたまたま介護施設のスタッフを探していて、私を紹介してくれました。面接後すぐに採用となり私はそこで働くことになりました。仕事をする上で特に困ったことはないです。私にできない仕事は他のスタッフの方がサポートしてくれます。例えば、利用者さんの洗濯物を仕分けをする際に漢字で名前が書いてあって私には読めないので、それ以外の仕事を任されます。他に分からないことがあれば、翻訳機を使って問題なく仕事をこなせました。逆に利用者さんが手伝ってくれたりもしました。今は月から金まで1日4時間働いていますが、4月からは少し増やすつもりです。
息子は、1年生として学校に通うことになりましたが、身元保証人の子どもと同じクラスにしてもらえたこともあって、他のクラスメートともすぐ仲良くなりました。学校で習ったことを当時全く日本語が分からなかった私に教えてくれたりもしました。先生方はとてもいい方々で、息子は学校が大好きです。咳や熱があったとしても「学校に行かせてくれ」とせがむほどです。
上の息子は、ウクライナの学校を6月に卒業してから来日し、こちらでは日本語学校に行くことを決めました。学校には、いろいろな年齢、国籍の学生がいます。最初はほとんど翻訳機を使いながらでしたが日本語でコミュニケーションを取り、とても楽しく通っています。通学時間は1時間15-30分ほどで、決して近くはないですが2年間通い、4月からも引き続きもう1年通うことになりました。
学校からの紹介でパン工場でのアルバイトもしています。
日本に対しては最初からいい印象を持っていましたが、住んでみてさらによくなりました。人々がとても親切ですし、すばらしい国です。唯一私にとっての問題点は、やはり言語です。短期のコースで勉強はしましたが、なかなか上達しません。もちろん、言葉が分からなくても私たちは行政の手続きや病院などもほとんど自分たちでやっています。翻訳機を使えば何とかなります。それでも早く日本語をマスターしてもっとたくさんの日本の方々と交流したいのです!そのためにも4月からは定住支援プログラムを受講する予定です。
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②
10代男性
戦争が始まり、様々なひどい情景を目の当たりにし、全てを失くしてしまい、私の将来を心配した両親は私に避難することを勧めました。その時私は17歳でした、まずはポーランドに3ヶ月滞在しました。そこで日本での学校や仕事を探していました。(なぜ日本を選んだのかは、自分でもはっきりしませんが、文化や経済の面でだと思います。)そして何とか居住許可が切れる最後の日にビザを取得することができました。それは2023年4月のことでした。日本に来てからしばらくある会社で働いていましたが、健康上の問題がきっかけで退職することになりました。そんな中ナタリアに出会い、彼女は私の引っ越しに関して、またリュドミラはニトリに就職できるよう手続きを手伝ってくれました。レスキューストックヤードの皆さんもいろいろとサポートをしてくれました。
その後、名古屋で暮らしていましたが、昨年10月から対面で定住支援プログラムを受けるために東京に引っ越しました。月曜から金曜までは日中に日本語講習を受けた後、ニトリで仕事をして、帰宅は23時頃になります。プログラムの先生の教え方は素晴らしく、職場では毎日先輩と日本語でおしゃべりしています。ですから、今では翻訳機を全く必要としません。日本の好きなところは、人々があまり他人のプライバシーに立ち入ってこないところ、特に宗教や政治についてもです。ヨーロッパではそういうセンシティブなテーマについて語り合うことが多く、
それが結局対立に繋がってしまうのです。
東京はいろんな意味で肌に合わないので、春には名古屋に戻りたいと思っています。名古屋に帰ったらまずは少し休みたいです。そして日本の春は出かけるのに最適な気候なのでどこかに出かけたいです。
将来は、コンピューター関係の仕事がしたいと考えています。
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③ 40代女性
私たちは2024年11月に避難してきました。私が日本を避難先に選んだ理由は日本が大好きだからです。私には永住権がありますし、言葉も話せるし、名古屋に何年も住んでいたので知り合いもいます。文化にも親しみを感じています。ただ、子どもたちはそう簡単にこの選択をした訳ではありません。彼らはキーウが大好きですし、そこには友達もたくさんいますから。でも、2年経っても戦争が終わらないので、ようやく避難することを決めたのです。日本はウクライナとは全てが違い、まるで別の惑星に来たようです。美しくて清潔で人々は親切です。私たちの今の暮らしは順調です。アパートの提供や国からの給付金もあります。息子は、中学校に通い始めました。彼は最初、「日本人は閉鎖的で外国人をあまり受け入れず、自分が孤独になるのでは」と心配していましたが、実際は全く違っていました。その学校には外国人がたくさん通っていて、クラスに最低でも1人はいます。(ヨーロッパからは彼1人ですが。)生徒たちは彼を拍手と笑顔で迎え入れてくれました。彼はすぐに人気者になり、皆知っている英語の単語をどうにか思い出して彼と話そうとします。そういった環境に感謝しながら息子は日本語を勉強し、楽しく学校に通っています。その日本語の上達度は、先生が褒めて下さるほどです。バスケットボール部にも入って活動しています。
娘は、来日してからこの4ヶ月間、家族以外との交流がほとんどありませんでしたが、それでも最近は看板に書かれた日本語を読めるようになったり、天気や食べ物などにも慣れてきました。食べ物に関しては息子もそうですが大好きです。今は、4月から定住支援プログラムで日本語を勉強するのを心待ちにしています。
こどもたちは、落ち着いたら日本国内を旅行したいという気持ちがあるようです。たとえば沖縄や海など。
私は、お金のためだけでなく、人の役に立ち、かつ自分が楽しめるような仕事や活動を見つけたいです。自分の可能性を最大限に引き出し、自分が完全に日本の住民だと思えるようになりたいです。
一日の中で気持ちが暗くなる時間もありますが、今日一日生きているそれだけでいいじゃないと思っています。半年前は、日本に行きたい、戦争の爆撃の音を聞かない、あちこち移動しない生活をしたいと思っていました。子どもたちが元気でいることも自分の願い、今はそれが実現できて、その夢が叶っています。夜寝るときにふと淋しくなるときもありますが、公園に来てそのことを思うと、また自分を奮い立たせることができます。
他の避難者も暗い気持ちで過ごしている人が多いけれど、例えばオンラインで気持ちを出す場を作る、精神的に暗くならないような方法を伝え合うなどの場作りをやってみたいです。名古屋在住の人であれば、公園でスポーツをするなど、避難者どうしが集まって助け合えるような場を作りたいです。
私と息子2人は2023年8月に避難してきました。日本を選んだのは友人が日本に住んでいたからです。日本での2学期が始まり、下の息子を入学させるため小学校へ連れて行きました。その時出会った保護者の1人がたまたま介護施設のスタッフを探していて、私を紹介してくれました。面接後すぐに採用となり私はそこで働くことになりました。仕事をする上で特に困ったことはないです。私にできない仕事は他のスタッフの方がサポートしてくれます。例えば、利用者さんの洗濯物を仕分けをする際に漢字で名前が書いてあって私には読めないので、それ以外の仕事を任されます。他に分からないことがあれば、翻訳機を使って問題なく仕事をこなせました。逆に利用者さんが手伝ってくれたりもしました。今は月から金まで1日4時間働いていますが、4月からは少し増やすつもりです。
息子は、1年生として学校に通うことになりましたが、身元保証人の子どもと同じクラスにしてもらえたこともあって、他のクラスメートともすぐ仲良くなりました。学校で習ったことを当時全く日本語が分からなかった私に教えてくれたりもしました。先生方はとてもいい方々で、息子は学校が大好きです。咳や熱があったとしても「学校に行かせてくれ」とせがむほどです。
上の息子は、ウクライナの学校を6月に卒業してから来日し、こちらでは日本語学校に行くことを決めました。学校には、いろいろな年齢、国籍の学生がいます。最初はほとんど翻訳機を使いながらでしたが日本語でコミュニケーションを取り、とても楽しく通っています。通学時間は1時間15-30分ほどで、決して近くはないですが2年間通い、4月からも引き続きもう1年通うことになりました。
学校からの紹介でパン工場でのアルバイトもしています。
日本に対しては最初からいい印象を持っていましたが、住んでみてさらによくなりました。人々がとても親切ですし、すばらしい国です。唯一私にとっての問題点は、やはり言語です。短期のコースで勉強はしましたが、なかなか上達しません。もちろん、言葉が分からなくても私たちは行政の手続きや病院などもほとんど自分たちでやっています。翻訳機を使えば何とかなります。それでも早く日本語をマスターしてもっとたくさんの日本の方々と交流したいのです!そのためにも4月からは定住支援プログラムを受講する予定です。
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②
10代男性
戦争が始まり、様々なひどい情景を目の当たりにし、全てを失くしてしまい、私の将来を心配した両親は私に避難することを勧めました。その時私は17歳でした、まずはポーランドに3ヶ月滞在しました。そこで日本での学校や仕事を探していました。(なぜ日本を選んだのかは、自分でもはっきりしませんが、文化や経済の面でだと思います。)そして何とか居住許可が切れる最後の日にビザを取得することができました。それは2023年4月のことでした。日本に来てからしばらくある会社で働いていましたが、健康上の問題がきっかけで退職することになりました。そんな中ナタリアに出会い、彼女は私の引っ越しに関して、またリュドミラはニトリに就職できるよう手続きを手伝ってくれました。レスキューストックヤードの皆さんもいろいろとサポートをしてくれました。
その後、名古屋で暮らしていましたが、昨年10月から対面で定住支援プログラムを受けるために東京に引っ越しました。月曜から金曜までは日中に日本語講習を受けた後、ニトリで仕事をして、帰宅は23時頃になります。プログラムの先生の教え方は素晴らしく、職場では毎日先輩と日本語でおしゃべりしています。ですから、今では翻訳機を全く必要としません。日本の好きなところは、人々があまり他人のプライバシーに立ち入ってこないところ、特に宗教や政治についてもです。ヨーロッパではそういうセンシティブなテーマについて語り合うことが多く、
それが結局対立に繋がってしまうのです。
東京はいろんな意味で肌に合わないので、春には名古屋に戻りたいと思っています。名古屋に帰ったらまずは少し休みたいです。そして日本の春は出かけるのに最適な気候なのでどこかに出かけたいです。
将来は、コンピューター関係の仕事がしたいと考えています。
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③ 40代女性
私たちは2024年11月に避難してきました。私が日本を避難先に選んだ理由は日本が大好きだからです。私には永住権がありますし、言葉も話せるし、名古屋に何年も住んでいたので知り合いもいます。文化にも親しみを感じています。ただ、子どもたちはそう簡単にこの選択をした訳ではありません。彼らはキーウが大好きですし、そこには友達もたくさんいますから。でも、2年経っても戦争が終わらないので、ようやく避難することを決めたのです。日本はウクライナとは全てが違い、まるで別の惑星に来たようです。美しくて清潔で人々は親切です。私たちの今の暮らしは順調です。アパートの提供や国からの給付金もあります。息子は、中学校に通い始めました。彼は最初、「日本人は閉鎖的で外国人をあまり受け入れず、自分が孤独になるのでは」と心配していましたが、実際は全く違っていました。その学校には外国人がたくさん通っていて、クラスに最低でも1人はいます。(ヨーロッパからは彼1人ですが。)生徒たちは彼を拍手と笑顔で迎え入れてくれました。彼はすぐに人気者になり、皆知っている英語の単語をどうにか思い出して彼と話そうとします。そういった環境に感謝しながら息子は日本語を勉強し、楽しく学校に通っています。その日本語の上達度は、先生が褒めて下さるほどです。バスケットボール部にも入って活動しています。
娘は、来日してからこの4ヶ月間、家族以外との交流がほとんどありませんでしたが、それでも最近は看板に書かれた日本語を読めるようになったり、天気や食べ物などにも慣れてきました。食べ物に関しては息子もそうですが大好きです。今は、4月から定住支援プログラムで日本語を勉強するのを心待ちにしています。
こどもたちは、落ち着いたら日本国内を旅行したいという気持ちがあるようです。たとえば沖縄や海など。
私は、お金のためだけでなく、人の役に立ち、かつ自分が楽しめるような仕事や活動を見つけたいです。自分の可能性を最大限に引き出し、自分が完全に日本の住民だと思えるようになりたいです。
一日の中で気持ちが暗くなる時間もありますが、今日一日生きているそれだけでいいじゃないと思っています。半年前は、日本に行きたい、戦争の爆撃の音を聞かない、あちこち移動しない生活をしたいと思っていました。子どもたちが元気でいることも自分の願い、今はそれが実現できて、その夢が叶っています。夜寝るときにふと淋しくなるときもありますが、公園に来てそのことを思うと、また自分を奮い立たせることができます。
他の避難者も暗い気持ちで過ごしている人が多いけれど、例えばオンラインで気持ちを出す場を作る、精神的に暗くならないような方法を伝え合うなどの場作りをやってみたいです。名古屋在住の人であれば、公園でスポーツをするなど、避難者どうしが集まって助け合えるような場を作りたいです。